美しく 樹つる 石が根

こんにちは、“かけだしロビイスト”のチャンです。自民党の政経塾を修了していますが自民党員ではありません。普段は“会社員”、あるときは 気まぐれ移動式食堂の“雑用係”。そしてまたあるときは“かけだしロビイスト”として、拙Blog“美しく 樹つる 石が根 ”を綴っております。

【集団的自衛権問題のルーツ】 『血の政治 青嵐会という物語』より

 


「コンサルテーション、コンサルテーション‼︎」

   フォギーボトムと呼ばれるワシントンDCポトマック河畔、米国務省会議室の高い天井に、甲高い日本人の英語がこだました。1955年8月29日、民主党鳩山政権下で初めておこなわれた、重光葵とダレスとの日米外相会談でのことだ。会議には、日本側から岸幹事長、河野一郎農相が同席した。
   会談冒頭、重光は30分以上かけて、日米安保改定論を「書類に食いつくようにして朗読した。(中略)寒いくらいに冷房の効いた部屋なのに、外相の額には汗がビッショリにじみ出ている。ご苦労なことだ、と気の毒になった」(河野一郎『今だから話そう』、春陽堂書店)
   10年前、東京湾の米艦船ミズーリ上で同じ外相として降伏文書に調印した重光。このとき、脳裏を駆けめぐったものは何だっただろうか。
   重光演説のポイントは、日本国民の反米思想を抑えるために(不平等な)安保条約の改定が必要である。改定しないと保守党が選挙に勝つ見込みはないし、一層共産勢力が躍進する。 ーという趣旨だった。
   ところが岸、河野がテーブルの向こうを見ると、「すっかりだれた雰囲気でダレス長官以下、誰も聞いているように見えない」。そして長い重光演説が終わったとたんダレスが立ち上がって猛烈な反論を始めた。
「安保改定などと言うが、日米の共同防衛ということは日本の憲法上できないではないか。アメリカが共産国と戦う時、日本はグアムに兵を派遣できるのか」(『岸信介回顧録』)。一言の反論も許さぬお説教が長々と続いた。
「コンサルテーション!(その時は協議すればいいではないか)」は、たまりかねた重光葵が発した一言だった。重光はこう応酬した。
「初めから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がどこにあるか。この点を比べて日本国憲法とアメリカ憲法とどこが違うのか」
   必死に反論する重光を見ながら、河野は「やはり戦前の外交官は見識を持っている」と、ある種の感動を覚えている。
   2日後、双方は共同声明を発表した。この中で、以下のくだりが国内で大論争を巻き起こす。
日本はできるだけ速やかに国土防衛の第一次的責任をとることができ、西太平洋での国際の平和安全の維持に寄与することができる諸条件を確立する。この条件が実現された場合には、現行の安保条約をより相互性の強い条約に置き換えることが適当とすべきことで意見が一致した」
   特派員は、「ダレス、海外派兵を要求」と伝え、国内は大混乱におちいる。それというのも、衆参両院は前年の6月、自衛隊法成立に際して「海外派兵の禁止決議」をおこなっていたからだ。決議文はいう。
「本院は自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照らし、海外出動はこれを行わないことを確認、決議する」
「国会決議を無視するのか!」。帰国した重光、河野たちへの野党の追及は急だった。
   しかし、集団的自衛権は固有の権利としてあるが、その行使は憲法違反」という1970年代に内閣法制局が創造した論理を展開した議員は皆無だった。
   重光は改憲論者であった。その重光にして、現憲法下でも集団的自衛権の行使は当然であり、場合によっては、国際的軍事機構に加わる集団安全保障すら合憲である、と解釈していた。だからこそ、共同声明に署名したのだ。
   一方、野党が警戒していたのも集団安全保障体制への参加だった。彼らは、当時ダレスが提唱していたNATOアジア版に日本が組みこまれ、地域紛争が起これば、自衛隊が米軍と一緒に海外の戦闘行動に出動することを恐れたのである。
   そもそも、憲法が疑問の余地なく日本の領域外での集団的自衛権行使を禁じているなら、わざわざ国会で決議をおこなう必要もなかったはずだ。
『血の政治 青嵐会という物語』河内孝 著(2009年発行)


勉強になります!



“かけだしロビイスト
“全日本 青空高く日の丸掲げ!推進委員会委員長”
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