美しく 樹つる 石が根

こんにちは、“かけだしロビイスト”のチャンです。自民党の政経塾を修了していますが自民党員ではありません。普段は“会社員”、あるときは 気まぐれ移動式食堂の“雑用係”。そしてまたあるときは“かけだしロビイスト”として、拙Blog“美しく 樹つる 石が根 ”を綴っております。

ひな祭りを お祝いしない我が町 仁尾町。430年 受け継がれ 護られてきた伝統

本日は 三月三日、ひな祭りですね。

全ての女の子に 御慶びを申し上げます!
家内が注文を御請けした 雛祭りロールケーキです😀

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ところで、私の住む 香川県三豊市仁尾町では
ひな祭りのお祝いをしません。


Wikipediaで「雛祭り」を検索してもこのように記述されています。

 

香川県三豊市の旧仁尾町では (中略)特殊事情のため、雛祭りは行われない。かわりに八朔雛人形を飾る。

雛祭り - Wikipedia

 

 

 特殊事情ww

 



なぜか?
その理由は戦国時代にまで 遡ります。 


仁尾城の城主は細川頼弘で、仁保、吉津、山地中村の城主であった。
天正7年の3月3日、土佐の長宗我部軍3千の兵は、仁尾城を攻めた。城主細川頼広は、近郷に鳴った勇将であり、弓をとり槍をふるって応戦し、城兵5百もよく奮戦する。長宗我部軍も予想外の敵の強さにひるんだが、数刻にして仁尾城は落ち、頼弘以下全将士は城に火を放ち自刃して果てた。
住民たちは、その悲惨なできごとを永遠に子々孫々に伝えるため、雛祭りの行事をとりやめその代わり男の子の馬節句(旧暦8月1日)にあわせて、ひな祭りを行っている。

仁尾城

 

仁尾町の歴史は古く、集落の形成は平安時代に始まったといわれています。戦国時代になって細川土佐守頼弘公が仁尾城を築き、その頃から町は急速に発展していきました。しかし430年前の天正7年3月3日に、長宗我部元親の侵攻を受けた仁尾城は落城。頼弘公は自害します。この日から仁尾では、城主の命日となった3月3日には祝い事であるひなまつりを行わず、八朔の日(旧暦の8月1日)に男子と女子の節句を一緒に祝うようになったそうです。
特に初めて男子が誕生すると、部屋の一角に舞台を作り石・砂・苔・松などを使って山川渓谷のミニチュアを作り、武者人形を配置して歴史上の有名人やおとぎ話の場面を再現し、元気に成長することを願うようになりました。この独特の風習がいつどのようにして始まったかはっきりとは分かりませんが、仁尾町本町には伝統的な人形作りの店が数件あり、このお店の存在が大きな影響を与えたことは間違いないようです。初節句を迎えた家々では、それぞれ趣向を凝らして芸術ともいっても過言でない人形の飾りつけをしたため、見物人が多く訪れて町内は大いに賑わっていました。 この風習は戦後も続いていましたが、次第に廃れて30年前頃には全く見られなくなってしまいました、この珍しい風習を甦らせて町ぐるみのお祭りにしたのが、平成10年から始まった「仁尾八朔人形まつり」です。

三観広域行政組合

 

 

ということで 我が町 仁尾町では
三月三日は 仁尾城主の命日にあたるため お祝いをせずに

夏(旧暦八月一日)に人形を飾り、お祝いします。

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姪の写真です。
服装から 夏っぽさわかりますかね?


そして、男の子の節句も同じ日に祝います。

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私と倅です。これは五月の写真ですσ(^_^;)

 

 

 Wikipediaには特殊事情と書かれていますが、
仁尾城主を弔い 喪に服すこと約430年、
今も 我が町に続く伝統なのです。
仁尾町民て真面目で律儀でしょ(^_^)


全国には それぞれの地域に 特徴的な風習や伝統が
今もなお残り、あるいは消えていってるのだと思います。

このような地域ごとの 風習やお祭りを 連綿と受け継ぎ、
次の世代へと繋げてゆく地域の有志の方々は、
立派な愛国者だと思います。

倅にも 我が町の伝統を受け継いで
大切なものを保守してもらいたいです。

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私が絵付けした 小さな 張り子の虎です。


“かけだしロビイスト

“全日本 青空高く日の丸掲げ!推進委員会委員長”


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