“南京大虐殺の首謀者”とされる 松井石根大将と倅。
こんばんは、“かけだしロビイスト”のチャン(林 貴史)です。
拙Blogのタイトルにある “石が根”とは、
「大地にどっしりと根のように張った頑強な岩盤」という意味がありまして、
万葉集にも読まれた とてもとても古い日本語です。
“石根(いわね)”とも言います。
実は、私の倅の名前は“石根”と言います。
(産まれてすぐの倅、 林 石根)
畏れ多い事ではありますが 尊敬する 松井石根大将から その名を頂きました。
松井石根大将について(田中正明著「パール博士の日本無罪論」より)
筆者は昭和8年から筆者が応召する17年12月まで、約10年間を、民間人として松井大将の下で働いた。
ある時は松井大将に随行して、台湾、香港、中南支全域にわたり旅行したこともある。
この時筆者が受けた強い印象は、大将がいかに中国を愛し、中国の指導者や民衆と解け合っていたかということである。
陸大を卒えると、みずから志願して中国へ飛び込み、先輩の荒尾精や根津一、川上操六、明石元二郎らの遺鉢を継ぐのだと言って、そのまま生涯の大部分を中国の生活に没入した軍人である。
中支派遣軍司令官の任を解かれ、南京入城の凱旋将軍として東京に帰ったが、大将は快々として楽しまなかった。
アジアの内乱ともいうべきこの不幸な戦争で倒れた日中両国の犠牲者を弔うために、わざわざ人を派して、最大の激戦地である大場鎮の土をとりよせ、これで一基の観音像を作った。これを、熱海市伊豆山の中腹にまつり「興亜観音」と称した。
その御堂には、日中両民族が手をとりあって、観世音の御光の中に楽土を建設している壁画を何枚かかかげ、みずから堂守りとなって、そこに隠棲した。読経三昧の静かな明け暮れであった。
終戦の翌年の正月、戦犯という汚名をきせられて、大将はそこからMPに引き立てられていった。家には文子夫人一人が堂守り生活を続けていた。施無畏の信仰に悟入した大将の2年余の獄中生活は、まことに淡々たるもので、あまり上手くない和歌や漢詩などを作っていた。朝夕の読経は死刑執行のその日まで欠かさなかったそうである。死刑の宣告を受けてから筆者への手紙に、わが全生涯をかたむけて中国を愛し、日中親善のためにつくした自分が、わが愛する中国人の恨みを買って死につくことは皮肉である。しかし、誰を恨み、何を嘆こうぞ、これで何もかもさっぱりした、このうえは自他平等の世を念じつつ、一刻もはやく眠りにつきたい、という意味の遺書がよせられた。
その夜、大将は天皇陛下万歳の音頭をとり、しっかりとした足どりで、13の階段をのぼったそうである。
つい筆がすべって余談になったが、筆者が言いたいのは、この松井大将が、どうして、中国の民衆を大量虐殺せよ等ということを「命令し、なさしめ、かつ許す」はずがあるであろうか?
松井石根大将は中国共産党による《虚構》である南京大虐殺を首謀したという ありえない罪で“いわゆるA級戦犯”として連合国に殺された昭和殉難者です。
拙Blogのタイトル“美しく 樹つる 石が根”は、
まだ見ぬ倅に向けて 私が読んだ歌の一説です。
この歌には、 家内の名前“美樹” と、倅の名前“石根”に加えて
両家の姓である“林”と“山(下)も詠み込んでいます。
倅の健やかな成長と両家の繁栄を祈念して詠みました。
美しく天に向かってまっすぐと樹ち
大地に根をはる大きな石よ
いついつまでも
林を守り 山を育くんでおくれ